ブルースのアドリブソロでは絶対に一回は出てくる超定番フレーズです。 2弦11フレットから13フレットのスライドはチョーキングに変えて弾く場合も多いです。 スライドで弾く場合は左手の親指も一緒にスライドさせないように気をつけて下さい。 フレーズ2 ブラックミュージックの代表格といえばR&Bです。 そのパワフルな音楽性は日本人にとっても非常に魅力的。 2010年からはグラミー賞でR&Bアルバム賞の部門も設定され、ますます注目され始 ... 1991年に結成されたTHEE MICHELLE GUN ELEPHANT(略称ミッシェル)は、2003年に解散するまでの間、その容姿、繊細ながらも圧倒的なギター、ハスキーなボーカルで当時のバンドキッズたちを夢中にさせてきました。, デビュー曲『世界の終わり』(発売日:1996年2月1日)は、力強いサウンドと奥深い幻想的な歌詞で、今でも語り継がれる名曲です。. 此処では京都とブルースに関するフィールドワークを参照しつつ、そこに時折姿を見せる、この様な複雑な時間と空間の関係について考察する。勿論この様な問題意識はすでに論じられて来た。中でも、現代世界において、様々な特定の「場所」で生活するわたしたちの生活実感は、そこに居無い他者との関係によって幻燈劇的(phantasmagoric)に定義される様になって居ると言う、アンソニー・ギデンズ(Giddens 1990=1993, 18-9)の議論は示唆に富む。ギデンズによれば、近代性(modernity)は本来的に グローバル化し、地域的な差異を超克して出来るものとして「普遍化(universalising)」して居る, 「近代性の普遍化は、西洋の大航海時代に端を発する時間と空間の空白化により推進される。時間の空白化は、世界中どこに行っても正確に時間を刻む機械時計の発明と普及によりもたらされ、空間の空白化は、世界地図̶̶特定の場所から自律した地球表象̶̶の発明と普及によりもたらされる。空間の空白化は、同時に、空間なるものを場所、つまり「地 理的に位置づけられた社会活動の物理的なセッティング」と分離する。この様にして 空間と場所の分離が進むと、私たちが生活し、物を考え、記憶を蓄積して行く「場所」と 言うものが、その場所とは一見何の関わりもない別の場所やそこには居無い人の活動の影響を受ける様になる。」, これが、ギデンズの言う、現代世界における幻燈劇的な人間関係である。此れは、 近代諸制度が、特定の場所に根付いた社会関係をその局所的な文脈から引き離し(脱埋め込み化)、空白化された時間・空間の広がりを横断して、他の様々な場所の中にそれを構造化し 直す(再埋め込み化)事を可能にして居るからである。脱埋め込みを可能にしている メカニズムには「象徴的通標(Symbolic Tokens)」と「専門家システム(Expert Systems)」がある。「象徴的通標」とは、「如何なる場所で如何なる特性を持った個人や集団により扱われても、それにかかわらず『受け渡し』が出来る相互交換の媒体」である。その代表例に「貨幣」があるが、音楽に関する文脈であれば CD や MP3 などが此れに当たる。, 「専門家システム」とは、「私たちの今日住んでいる物質的、社会的環境の大部分を組織して居る技術的な成果や専門知識」の事だ。例えば我々は、自動車の走る仕組みを知らなくても自動車を運転する。此れは、その仕組みの部分を専門家システムが担保して居るからである。音楽に関して言えば音楽産業であるとか、音楽著作権制度なども専門家システムと言えるだろう。音楽の録 音・再生を可能にして居る様々な技術や、そして著作権・著作隣接権の処理についての知識が無くても、音楽を聴く事が出来る訳である。, この様な議論を踏まえるならば、京都ブルースについて、ブルースが合州国の特定の文脈 (南北戦争、奴隷解放、公民権運動......)から、レコードと言う象徴的通標と音楽産業という 専門家システムによって脱埋め込み化され、それが時空間のグローバルな広がりを通して京都と言う場所の別のローカルな文脈(70年代のアングラ・フォークやニューロックの興隆、学生運動......)の中に再埋め込み化された、と記述する事が出来よう。しかし、ギデンズ自身も指摘する通り、近代性のグローバル化は、実際にはこの様な合目的的なプロセスでは無く、 暴走する「ジャガノートに乗って居る」様な、予測不能で、制御困難なプロセスである。観光や移動をキーワードに新しい社会学の視野を拓いているジョン・アーリもまた、グローバルなるものの複雑性(complexities)を検証した論文の中で、「[既存の]社 会科学の多くは、グローバルな水準あるいは規模と言う物を、ローカル性や地域、国民国家、 環境、文化と言う様なものを直線的に変形して仕舞う、全能の、そして完全でどこまでも同質なものとして、自明視して来た」と批判して居る。アーリはまた、近代性の中で私たちの依って立つ土台がどんどん不安定になっており、関係を構築しようとする先から足元を掬われる様な流動的なものになって居ると言うバウマンの指摘(Bauman 2000=2001)や、 移動する権力として「帝国」を捉えるハートとネグリの議論(Hardt & Negri 2000=2003)、全 ての人が内側と外側に同時に存在して居る様な複雑なシステムの存在ゆえ、企業や国家の活動の多くが自分で自分の墓穴を掘る様な事態に陥って居る事を指摘するベックの議論(Beck 1986=1998)などを参照し、グローバル化とは、非線形的な、複雑性を持った現象であると指摘する。この様な視点から考えるなら、京都とブルースの関係は、憂歌団の「俺」同 様、グローバルとローカル、空間と場所、あるいはマクロとミクロというような単純な二項対立では充分に分析出来ない事になる。, この為。此処では、文化のグローバル化が孕む複雑性をより精密に析出するための指針として、特に「空間性(spatiality)」の諸相を再検証し、その重層性と相互干渉に注目する。より具体的には、まず、移動するヒトやモノを内包する、通常の意味での「空間」概念について、 人文地理学者であるデヴィッド・ハーヴェイ(Harvey 2005)の分類法を参照しつつ検討する。 次に、このよな通常の空間概念の中を移動するヒトやモノ(あるいは作品やジャンル文化), それ自体が構成する「空間」のあり様について、科学的事実の「普遍化」について批判的に検証するローとモル(Law & Mol 2003)の分類法を参照しつつ検討する。これら二つの分類法は、 異なる文脈から引用したものであり、その間の論理的な整合性を厳密に同定する事は此処では余る。むしろ、京都とブルースという特定の事例が、この様に一見整合性のない様々な空間概念にどの様に当てはまり、また、それらがどの様に重なりあい、お互いに干渉しあって居るかを描出する事が、さしあたっての主題となる。論を進める上での利便性から、 まずは京都のブルース文化の歴史的変遷について概観し、上に概観した様な空間性の諸概念と分類法を提示し、そのあとで、フィールドノートからのデータと突き合わせながら、是等の空間性概念が京都とブルースの関係を分析する上でどの様に有益かを検証する。結論では、それらを踏まえた上で日本のブルースを明らかにしたい。, 京都のブルース関係者に話を聞くと、1970年代に至るまで日本には「ブルースは無かった」と言う話になる事が多い。京都出身で、70年代初めから主に関東の米軍基地でギターを演奏していた西野やすしは、「エリック・クラプトンやローリング・ストーンズのおかげで『ブルース』と言う単語だけは一人歩きして居たんですわ。せやけどそのぅ、黒人のブルー スと言うのはまったく知らんかったんですわ、当時の日本人は」、と当時の状況を振り返る。 西野が最初に米軍基地での演奏を始めたのは 1972 年の事だが、それは泥沼化するヴェトナ ムで北爆が再開された年である。当然基地のなかの空気は緊張しており、酩酊して舞台に上がって来る客や、ヴェトナム行きのプレッシャーから錯乱し凶器を振りかざす兵士なども居たと言う。西野はその中で、「米兵と一緒に演奏」して廻った。演奏して廻った、と言っても何時も同じ人間とバンドを組んで居る訳では無かった様だ。基地での仕事は年間数クールに別れており、そのたびに別の場所で別の人間と組んで演奏すると言う雇用形態であった。また、 会場や曜日により客層も異なり、幅広いレパートリーを見よう見まねで習得する必要があった。 西野にとって、ブルースはそうしたレパートリーの一部であったと言う。, 多くが指摘する通り、「ブルース」という言葉は 1970年代以前から日本でも使われて居た。日本で「ブルース」という言葉がタイトルに使われた最初の曲 は 1935年に発表されたヘレン雪子本田による「スヰート・ホーム・ブルース」である。1937年には淡谷のり子が「別れのブルース」を吹き込んで「ブルースの女王」への道を歩み始めた。 1939年には 斎藤寅次郎監督の「東京ブルース」というミュージカル映画もあった。60 年代以降も、1959 年に「一対一のブルース」を出した西田佐和子が 1963 ~ 4 年にかけて「東京ブルー ス」、「博多ブルース」、「メリケンブルース」を発表し、1966年には美川憲一が「柳ケ瀬ブルー ス」を、青江三奈が「恍惚のブルース」を歌っている。その青江三奈は 1968年に「伊勢佐木町ブルース」、「札幌ブルース」、「長崎ブルース」を相次いで発表した。長崎ブームにあやかった中井昭・高橋勝とコロラティーノの「思案橋ブルース」も 1968年の発表である。70年代を迎えても、「ブルース」と名のつく曲は数多く発表されており、厳密に言うならば、「70年代 に至るまで日本にブルースは無かった」、と言う言い方には語弊がある、と言う事になる。 しかし此処で重要なのは、70年代になって、それまでのブルースとは違う、特定の形式や内容、 媒介者、受容層をもった「ブルース」――西野の言う「黒人のブルース」――と言うものが顕 在化する様になった、と言う事である。, もっとも、この「黒人のブルース」は突然空から降って来たものでは無い。少なくとも二つ、 そこに至る水脈があった。一つは50年代以降のアメリカの所謂フォーク・リヴァイヴァルの動きの中で、収集家や愛好家のあいだで再評価される様になったカントリー・ブルース の流れである。それは、大和田がアメリカ音楽史という視座から正当に指摘して居る様に、「反商業主義と反西洋主義を掲げる戦後アメリカのフォーク・リヴァイヴァルの文脈の中で」そう言うものとして作られたものと捉えるべきものであろう。1973年に日本語のブルース専門誌『ザ・ブルース(現 BMR)』を創刊し、1975年東京・下北沢で有限会 社ブルース・インターアクションズを設立した日暮泰文は、自らの回顧録の中で、60年代半ばブルースと出会った経緯を生き生きと描いて居る。注目すべきなのは、日暮が当時、輸入レコードや米軍放送(FEN)のほかに、1963年に創刊された英『Blues Unlimited』誌や、続いて 69年に創刊された米『Living Blues』誌など、まさにフォーク・リヴァイヴァルのイデオロギーの中でブルースを紹介して行く事になる雑誌を情報源として挙げて居る事である。日暮らはまた、すでに 1968 年頃から東京・渋谷などで、「[ブルー スの]オリジナル形態、本来の力をあらためて世に知らせ様という意図」から愛好者を募り、レコード・コンサート等の活動を行なって居た。, もう一つの水脈は、英米におけるブルース再評価の動きの中で、ブルースに影響を受け、 それを参照する形で生まれた、(白人の)ロックンロールやロックであった。ブルースに投影された素朴でプリミティブな表現力は、大和田の指摘する通り、ブルースの中に素朴でプリミティブな音楽を見出そうとする「黒人と白人双方の欲望」の中で形作られたものである。大和田によれば、その欲望は、1960年代に誕生するロック・ミュージックの基礎となり、やがて世界中の若者―その中に、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)やエリック・クラプ トンが居た事は言うまでもない――がブルースに魅了されるのである。当時の日本の音楽好きの若者の大部分にとって、ブルースとの接点はむしろ、此方側であった。白人のロックンロールやロックのルーツを探すなかでブルースに辿り着くと言う、いわばブルースからロックンロールやロックに発展すると言う英米での時系列とは逆向き の展開が日本では主流だった訳だ。こうしたリスナー層の台頭に対して、日暮は「拒否反応」を起こすと同時に、「ブルースのコアなマー ケットを囲む様に、時によってはブルースのマーケットになり得るグレーゾーン」が 形成される様になった事が、日本におけるブルースビジネスを可能にしたと分析して居る。, 要するに、60年代末の日本において、ブルースの火種は、ともすれば相克するものとして描かれがちな(アングラ)フォークと(ニュー)ロックの両方でくすぶって居たと言う事である。それは、アングラ・フォークの中心的な人物であったでは高石ともや、や、岡林信康がブルー スと言う名のつく楽曲(「受験生ブルース」(高石 1968)、「山谷ブルース」(岡林 1968)を発表するのと並行するような形で、グループサウンズからロックへの脱皮を図るザ・ゴールデン・ カップスがアルバム『ブルース・メッセージ』(1969)をリリースした事からも明らかであろう。そして当時の京都は、いわばこの両方がせめぎ合う場所であった。一方で、学生を主な担い手としたヴェトナム反戦運動や反体制運動の激化を背景に、政治的なメッセージを日本語で歌うフォーク音楽に注目が集まった。その先駆者的存在であるザ・フォーク・クルセダーズ をはじめ、高石ともやや岡林信康、京都に活動の中心を移した高田渡や遠藤賢司を中心に関西フォークの流れが生まれ、1967年 7月に京都で第一回が開催された関西フォークキャンプ(1969 年以降、全日本フォークジャンボリー(中津川フォークジャンボリー)に引き継がれてゆく) がその受け皿となって居た。他方では、1969年 8月にアメリカで開かれたウッドストック・フェ スティヴァルの影響を受け、1969年から TOO MUCH、FUCK ’70、MOJO WEST、幻野祭 などのロックイベントが、学生運動の拠点の一つであった京都大学西部講堂等を利用して開催されて居る。これらのロックイベントを通して「裸のラリーズ」、「トゥーマッチ」、「村八分」など、日本のロックのパイオニアとも言われる、先鋭的な京都のロックバンドが頭角をあらわす様になる。, 上述したような当時の音楽的状況に「黒人のブルース」が最初に具体的に持ち込まれたのは、 1971年 2月の B・B・キングの初来日である。先に引いた日暮によれば、同じ 1971年にリリースされた 3枚組 LP『RCA ブルースクラシック』辺りから国内でもアメリカのブルースのレコードが売れる様になったと言う。また、1971年 9月に NHKで全国放送され た『黒人の魂・ブルース』と言う、シカゴの黒人街のドキュメンタリー番組が、「黒人のブルー ス」への注目の直接のきっかけとなった様だ。もとより当時の日本では、特に68年 4月のキング牧師暗殺から 72年 11月の米大統領選前後に掛けて、ヴェトナム戦争や公民権運動の動向など合州国の政治情勢への関心は高かった。『黒人の魂・ブルース』はハーレー・コクリス が同年に監督したドキュメンタリー映画であり、シカゴのサウスサイドの貧民街で生活にもがく黒人たち(北部に夢を託してやって来た南部出身の黒人たち)の姿と共に、黒人街の小さな クラブで(B・B・キングの流麗な洗練されたブルースとは違い荒削りな)演奏をする「マディー・ ウォーターズ」や「バディ・ガイ」、「ジュニア・ウェルズ」などを記録した佳作である。私も見たし、直接・間接にこの映画を見た、あるいは話に聞いたと言う当時の関係者は多いが、放映時期や内容を含め、証言には食い違う部分も多い。まだ家庭用 VTR も無い時代、逆にそれがこの映画にある種の特権的な神格性を与えて来た様だ。先に引いた西野やすしは、「あのドキュメンタリーをたまたま見てて、偶然見てて、ブルースにはまっ て仕舞ったと言う人が無茶苦茶居るんですよ。ウェスト・ロード・ブルース・バンドの塩次伸二さんもその一人やし」と振り返る。この塩次伸二をリードギターに配するウェスト・ ロード・ブルース・バンドこそ京都ブルースブームの中心的な役割を果たして行くグループである(「ウェスト・ロード」とは、京都の「西大路」を英語読みしたものだと言う)。そのウェスト・ロード・ブルース・バンドの存在を決定的に印象付けたのが、1972年 9月に二度目の 来日を果たした B・B・キングの大阪公演であろう。当時まだ無名のウェスト・ロード・ブルー ス・バンドはこの公演の前座に大抜擢され、アンコールでは B・B・キングと即興共演したのだ。 日本のブルース・バンドの草分け的存在、ウェスト・ロード・ブルース・バンドは、1972年、 この様にして始動した。, 一方、1972 年は日本の若者文化、対抗文化にとっては大きな転換期でもあった。それを象徴するのが連合赤軍の浅間山荘事件である。警察が強行突入し、犯人が逮捕され人質が保護される様子はテレビで全国に生中継された。京都や大阪で展開されて居たアングラ・フォークの祭 典・関西フォーク・キャンプは 69年の第四回を最後に岐阜の中津川の全日本フォークジャンボ リーに舞台を移し(それ自体も 1971年の第三回でレコード会社の介入を訝る聴衆の収拾がつかず断絶)、京大西部講堂を中心にしたアート・ロック系のイベントも、1972年の幻野祭以降下火に向かう。1973年には村八分がその西部講堂でライブを行い、その模様を記録した唯一の オリジナルアルバム『ライブ』(1973)を残して解散して仕舞う。当時同志社大学の学生で、 同じ同志社大学のウェスト・ロード・ブルース・バンドのギタリスト塩次伸二と交流のあった 多田タカシは、「ムラハチが無くなって、その隙間にブルースが入って来た。...[中略] ...ロックバンドからブルース・バンドに入れ替わった事は、絶対、村八分の解散とリンクしてると思うんですよ」と語る。1971年には大阪で春一番コンサートが始まるが、中津川のフォー ク・ジャンボリーが紛糾した翌年の 1972年の第二回以降はキングレコード傘下のベルウッドが ライブ盤製作に乗り出し、1973 年からはヤマハ主催の勝ち抜きバンドコンテスト 8・8 ロック デイが始まり、レコードデビューへの登竜門となってい。「ウェスト・ロード・ブルース・バ ンド」は幻野祭でも演奏して居るが、ウェスト・ロードを始め「上田正樹とサウス・トゥ・サウス 」や「憂歌団」、ウェスト・ロードの塩次伸二の「愛弟子」とされるギタリスト田中晴之らの「ファッ ツ・ボトル・ブルース・バンド」など、同期あるいは後続のブルース・バンドの全国的な認知に繋がる活動の中心はむしろ 8・8 ロックデイであった。, 1973年、京都ではコーヒーショップ拾得が開店した。今でこそ「日本最古のライヴハウスのひとつ」と称される「拾得」であるが、当時は(そして今でも)、コーヒーショップを名乗って居る。フォークシンガーのアーロ・ガスリーが主演した映画『アリスのレストラン』(Penn 1967)にインスパイアされ、友人たちと酒蔵を改装して作り上げたこの店は、ライブよりもむしろ「玄米定食で有名な店」であったと言う。もともとビート文学やフォーク音楽、そしてヒッピー主義を嗜好し、そう言う仲間が居つける場所として作られた店内には、それゆえ今でもギターの弾き語りに丁度いい程度の大きさのステージしかない。「テリーさん」として親しまれ、 今も店を切り盛りする店主の寺田国敏によれば、ウェスト・ロード・ブルース・バンドが最初に演奏させて欲しいと話に来たときは、「ブルースだからアンプは通さない」と言うので了承したのだと言う。しかし、回数を重ねるうちに何時の間にかドラムスやマイクやアンプが持ち込まれる様になり、ついにはステージが狭すぎて一部のメンバーはステージ下にはみ出して演奏する様になった。翌 1974 年には拾得と並び京都の老舗ライヴハウスと称される「磔磔」も開店し、京都とブルースを結ぶ受け皿となって行く。, 同じ 1973 年には東京で、前述の日暮泰文らがブルースの専門誌『ザ・ブルース』を創刊して居る。同誌は黒人ブルースの歌詞の内容や文化的・社会的背景だけでなく、技術や機材、演奏法や器楽法を紹介し、中村とうようが 1969年に創刊した『ニューミュージック・マガジン(現 ミュージックマガジン)』と共に、「本場」の視線を持ち込んで日本のブルース・バンドにお墨付きを与えるメディアとなって行く。例えば 1975 年にリリースされた「ウェスト・ロード・ブルー ス・バンド」のデビューアルバム『ブルースパワー』(1975年発売)では、「日本を代表するブルース・バンドがとうとうレコードを作った」と言うタイトルのライナーノーツを『ニューミュージッ ク・マガジン』の中村が担当し、『ザ・ブルース』はシカゴのブルース・ミュージシャン、ジミー・ ドーキンスによる好意的な(10 点満点で 7 点という評価であった)レコード評を掲載してい る(Dawkins 1975:62)。同じ 1975年にリリースされた憂歌団のデビューアルバム『憂歌団』では、『ザ・ブルース』誌上に掲載されたアルバムの広告自体に「ブルース・ファンにも聴くことを勧められる初めての日本人のレコード」と言うタイトルで日暮が 手描きの推薦文を寄せているほか、高地明によるレコード評が掲載されて居る。 高地はこの記事のなかで、矢張り関西のブルースを取り巻く雰囲気は独特のもので、私が見た限りでは東京のそれとは余りに違って居た。ブルース・ファン気質をそのまま表して居ると言ってもいいその雰囲気は、東京の連中は、言葉は悪いかも知れないが、ディスク・マニアを中心として 理論先行型で冷静なファンが作って居るのに対して、関西、特に京都ではバンドをやって居る連中を中心とした生のブルースにより愛着を覚えると言った人が作り出している様だ。と京都のブルースシーンの特性を観察して居る。 『ニューミュージック・マガジン』と『ザ・ブルース』は、アメリカの黒人音楽の最新情報を提供し、それを通じて日本のブルース・ミュージシャンにお墨付きを与えるメディエーターになるばかりでなく、アメリカのブルース・ミュージシャンと日本のオーディエンスのあいだの橋渡しにも積極的であった。それも、時にはそれを通してアメリカのブルース・ミュージシャンの 人生そのものまでをも変えて仕舞う様な、積極的な役回りを果たして居た様だ。その一例 として興味深いのが、スリーピー・ジョン・エスティスである。エスティスは 1920年代から多くの録音を残しつつも 40年代以降「行方不明」になり、60年代初頭に「極貧、全盲状態で」再発見された。, 日暮の働きかけで 1973年にリリースされたエスティスの LP『スリーピー・ジョン・エスティスの伝説』(Estes 1962=1973)は、日本ではオリコンのアルバムチャートに入るヒットとなった(日暮 前掲書:54-5)。そればかりか、エスティスは翌 1974年、『ニューミュージック・マガジン』が主催した第一回ブルース・フェスティヴァルに 呼ばれ来日を果たし、1976年の二度目の来日時には、憂歌団と共に全国をツアーする事になる。来日した事でその後のキャリアを大きく変えたブルース・ミュージシャンとしては、他 にオーティス・ラッシュを揚げる事が出来よう。初来日となった 1975 年の第三回ブルース・ フェスティヴァルでのラッシュの演奏の出来栄えには意見が割れた様だが、才能の割にレコード会社に恵まれて来なかったラッシュは、この来日の際に後に夫人となる日本人女性と知り合った。日暮は、このことが「オーティスという希代のブルースマンを再生に導いたのだ」と書いて居る。, はもにか道場 LIVE 2 Days _1/7_道場のテーマ(Theme for Harmonica DOWJOW), KOTEZ&YANCY/Don't Go No Further (short edit ver. Jimi Hendrixが歌うPurple Haze(紫のけむり)の歌詞ページ(ふりがな付)です。歌い出し「Purple haze all my brain…」無料歌詞検索、音楽情報サイトUtaTen ... 愛称”ボス”で知られるブルース・スプリングスティーンは、アメリカを代表するロック・アーティストのひとりです。, 既発アルバムの全米トータルセールス6400万枚は歴代15位、全世界トータルセールスは1億2000万枚を突破、1999年にはロックの殿堂入りを果たしました。. 「ブルース」が音楽ジャンルのひとつということをご存知の方は多いと思いますが、「ブルース・ロック」というジャンルを聞いたことはありますか?   この記事ではブルース・ロックを徹底解説。 ブルー ... ブルースは恵まれていない自分達の境遇をギター一本のスタイルで歌ったものが始まりとされ、基本的にギターと歌があればブルースといえます。, ジャズはそのブルースに伴奏を加え、BGMやダンスミュージックとしてエンターテインメントに昇華させたもので、楽器演奏が主役です。, ジャズはロックにほとんど影響を与えていないのに比べて、ブルースは大きな影響を与えました。, ほとんどのロックミュージックはブルースのスケールや進行、アドリブなどを土台として生まれたといってもよいほどです。, 一方、映画「セッション」でも題材として取り上げられたジャズは「ファンク」や「ヒップホップ」に影響を与えたといわれています。, 黒人音楽をルーツに持つブルース・ロックですが、日本でも独自の解釈で歌われています。. 定番中の定番曲ですね。 12小節の7thブルースです。 ブレイクやキメも出てこないのでブルース進行を知っていれば誰でも参加できる曲です。 ブルースセッションに初めて行かれる方なんかはこの曲から始めてみるといいのではないでしょうか。 日 本で「シカゴバウンド」を歌う木村充揮の事なのか、アメリカンドリームに裏切られたシカゴの黒人の事なのか? ブルース・スプリングスティーンの新作アルバム『レター・トゥ・ユー』が、2020年10月23日に日本盤もリリースされることが発表された。 本日2020年9月23日に71歳の誕生日を迎えたロック界のボス、ブルース・スプリングスティーン。せんなっ The Birthdayらしい分厚く骨太なサウンドと豊かなビート、ざらついた声が想像を刺激するチバユウスケさんのボーカルが圧巻です。, この曲はチバさんが「渾身のアルバムです」とコメントした8枚目のCDアルバム「BLOOD AND LOVE CIRCUS」に収録されています。, ほか、フォークのイメージが強い泉谷しげるさんの『行きずりのブルース』もぜひ聴いてみてください。. ブルース [要出典] (Blues)は、米国 深南部でアフリカ系アメリカ人の間から発生した音楽の一種およびその楽式。 19世紀後半頃に米国深南部で黒人霊歌、フィールドハラー(農作業の際の叫び声)や、ワーク・ソング(労働歌)などから発展したものといわれている。 それとも是等ともまったく違う場所と時間で歌う誰かなのだろうか? 日本演歌の定番となった、珠玉のフレーズ満載の名曲《東京ブルース》 一流歌手がカバーしたとき、それぞれが独自の物語を僕たちに見せてくれ、単なるカラオケには絶対にならないことを痛感するのであります。 《東京ブルース》 佐々木 モトアキ. セッションで、曲を全く知らない初心者の方が参加されたとき、「じゃあ、とりあえずブルースで!」という流れになる事が多々あります。 ブルース進行とは、元はブルースという音楽ジャンルから派生したコード進行の事です。 セッションに非常に適したコード進行 で、なおかつ簡単な為、 THEE MICHELLE GUN ELEPHANTが歌う世界の終わりの歌詞ページ(ふりがな付)です。歌い出し「悪いのは全部 君だと思ってた くるっているのは あんたなんだって つぶやかれても…」無料 ... ブルースロックも手がけるフラワーカンパニーズは、1989年の結成以来メンバーチェンジなしで活動を続けているバンドです。, 全力で叫ぶ「生きていてよかった」というフレーズは、何かにつまずいた人の心にずしんと響きます。. ブルースはギターを弾く人にとっては馴染み深い音楽の一つでもあるでしょう。音楽的な構造として、ブルースはメジャー・キー、マイナー・キーというものとやや違う形をしています。いろいろな音楽の元となっているブルースを理論的な側面から見てみましょう。 2020.12.23 【winter sale】2点以上お買い上げでさらに10%off. news 最新のお知らせ. Pocket. All right!) 50-70年代の間で、これがブルースというジャンルを代表する10曲だというものを教えてください。10曲以内でもいいです。ひねった選曲よりもストレートなものが知りたいです。ここでいうブルースは、ジャズ系のブルース曲ではなく、いわ 2020.12.23 sale & outlet商品が《さらに10%off》スペシャルコードプレゼント. Tweet. ZIGGYが歌うI'M GETTIN' BLUEの歌詞ページ(ふりがな付)です。歌い出し「(Oh yeah! 実はこのヨナ抜き音階というのは、演歌の定番であり、いわば「ジャパニーズスケール」といえる。 前回書いたように、マイナー(短調)の曲はペンタトニックで構成できる。演歌や日本の童謡の多くが短調だから、このヨナ抜き音階で構成されていることが多い。 演歌=日本のブルースとい� 「こんな曲が聴きたい!歌いたい!」「どうすればもっと歌が上手くなる?」そんなときにお役立ちする情報を提供していきます。 I'm going down to Rosedale, take my rider by my side. 元となっているのは“すべてのブルースやロックの永遠の原点”といわれ、エリック・クラプトンの憧れの存在でもある伝説のシンガーロバートジョンソンの名曲です。, 2010年にシカゴで開催された、エリック・クラプトン主催のチャリティコンサート「クロスロード・ギター・フェスティバル」で、クラプトンはBBキングと共演し、この曲を熱唱しています。, この模様はDVDとBlu-rayに収録されており、ほかの豪華な顔ぶれによるギター演奏も堪能できます。. The Doorsが歌うLight My Fire(ハートに火をつけて)の歌詞ページ(ふりがな付)です。歌い出し「You know that it would…」無料歌詞検索、音楽情報サイトUtaTe ... 1970年に亡くなってからも、なお語り継がれる天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリクス(通称ジミヘン)の代表曲といえば『Purple Haze(紫のけむり)』をあげる人が多いでしょう。, ギターを背中や歯で引き、火を放ち破壊する、その過激なパフォーマンスで有名ですが、ブルースへのリスペクトを強く持っていました。, また、ジミ・ヘンドリクスは音楽雑誌各誌で最も偉大なギタリスト1位に何度も選ばれています。.